具平塚  賀古駅家(かこのうまや) 馬ケ池(うまがいけ)
         壇の森(だんのもり) 古大内城跡


御 祭 神

具平親王(ともひらしんのう)  大年神
由緒
村上天皇第七王子具平親王八世の孫従三位右近衛少将秀房卿
(源 秀房)が鳥羽院の勅を奉じ天永二年(1111年)古大内の地に移り鎮まった。
村名 古大内(ふるおうち)(古い大内)もこのことに因る。
現在、歴史上重要な遺跡が周辺に多い。
特に駅家(うまや)跡ではないかとも言われる。
大 内−−内裏・禁中・皇居等皇族の施設      
 
在坂元村ト平野村ノ間 大道ノ南一段高キ土地 村上天皇ノ皇子具平親王ノ陵也 世人是ヲ朱見塚ト云 「播磨鑑」
坂元・平野は加古川中心部より東の地域 
土地の人はさわると祟りがあるといって草も刈らないそうです。「王塚と呼んでる」
加古川市市役所の東 別府川の良野橋を渡ってすぐ。 (野口町良野)

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播磨国風土記に「驛家の里」と記載されているが現在、馬ケ池のあたりと言われる。
境内より出土する瓦より奈良時代後期から平安時代中期と考えられ地元には壇の森 といわれる松林があり伽藍の礎石が散在していることなどから寺院跡とも言われるがやはり出土する瓦が播磨国司の統制下におかれた屋根瓦で在ることからこのあたりに「賀古駅家」が在ったのではないかと言われる。
大化2年 646年頃我が国上代の交通の基点、産業、行政、文化の第一の拠点であった。
また馬40疋を備えた最大級の駅家であっと伝えられている。
平成21年3月25日 「賀古駅家」跡地と古代山陽道の側溝が確認されました。
(兵庫県立考古博物館)

       

    

平成21年4月13日 くぼみのある礎石が確認されました。
「賀古駅家」の門の礎石と考えられています。
このくぼみは門の部材に使われた長方形の板がはまるくぼみと見られ、この二つの
礎石が対になって門を支えていたと考えられます。
どちらもくぼみは横約10cm 写真左は長さ約20cm 右は約15cmです。
    
戦前より数十個の礎石が境内にあるのは知られていましたが、当初は廃寺跡とされてました。戦後の研究(歴史 地理学 考古学等)で「賀古駅家」のものと見られましたが詳しい報告はされていませんでした。

平成21年7月17日
全国で初めて駅家の入口につながる道路跡を確認するとともに、礎石が駅家跡では落地(おろち)遺跡(上郡町)に次いで全国で2例目となる、駅家の門に使用された唐居敷(からいじき)と呼ばれる特別な礎石であると言うことが分かりました。
 
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すぐ北方に教信寺というお寺がある。
そこの開祖、教信上人が農耕のために開発したと言われている。
「賀古駅家」に因み呼ばれている。
具平親王神社の東

壇の森(だんのもり)
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壇−−一定の寺院に属する意味合いの物
境内の東にあり檀とは韓国建国の「壇君神話」によるもので朝鮮半島からの渡来者が定住していたことを示す物である。(鵤のルーツを探る会)
境内に東西約14m 南北約12m 高さ約80cmの土台があり塔の跡と云われていたが現在跡形もない。戦前までは松林であった。古大内の寺院跡ではないかと云われている。
旧境内地? 具平親王神社の西約500mとする説もある。(写真)
(現在調査中です)
 
境内地
鳥羽院の勅を奉じ源 秀房が天永年間に移り住んだ当時、天候が悪く大洪水となった。
田畑は流れ、大凶作と大飢饉が重なった。
そこで城を構えたとある。「古大内 乾家 古文書」
石垣を積み重ね簡単な住居を造ったのであろう。
 
鎮座地
加古川市野口町古大内457  
 
交通案内
国道2号 野口交差点東へ約1km 新在家交差点西へ約1km
ともに野口農協の南約500m
 


 
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